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超アンバランスな光景 [史跡散歩]

深大寺(じんだいじ) [史跡散歩]

神代植物公園の深大寺門を出て(再入園する場合は再入園券をもらいます)、坂道を少し下るともうそこは深大寺の境内です。

調布、布田という地名は、古代の武蔵野の地に朝鮮半島からの渡来人たちが織物の技術を伝えたことを物語っています。
深大寺がこうした渡来人たちの信仰を集めていたことは想像に難くありません。
寺には白鳳時代に鋳造されたという釈迦如来椅像が、釈迦堂に祀られています。
深大寺の寺名は、湧水の豊富なこの地に祀られていた水神の深沙大王にちなむものです。
つまり深大寺は「深沙大王の寺」という意味です。

草葺き屋根の山門は桃山時代のもので、「浮岳山」という額がかかっています。

本堂は江戸時代に大火で焼失し、大正時代に再建されたものです。

元三大師堂(がんさんだいしどう)は毎年3月3日〜4日のだるま市で多くの参詣者を集めています。

門前には深大寺そばの店が軒を連ねています。蕎麦の原産地は大陸北方で、我が国には渡来人がもたらし広まっていきした。江戸時代に天台宗の法親王に献上した蕎麦切りが賞賛されたことから深大寺そばは有名になったそうです。

古くから庶民の信仰を集め、武蔵野の豊かな自然を背景にした由緒ある深大寺。
神代植物公園では花を楽しめ深大寺では歴史を感じられるという、とてもお得なスポットです。


十五郎穴 [史跡散歩]

茨城県への一泊二日の旅でしたが、ブロクでは7日間かけて紹介しました。
本日は最終日です。

虎塚古墳から十五郎穴横穴群に向かう途中の畑でハグロトンボをみつけました。
用心深いトンボでちょっと近づくと飛んでしまい、近寄っては撮れませんでした。
翅をひらひらさせて飛ぶ姿はトンボよりも蝶に似ています。

ハグロトンボはあきらめ、十五郎穴へ向かいました。
人っ子一人歩いていない野道です。
切り通しのような道をしばらく行くと田んぼが見えてきて開けてきます。
川に面した段丘の崖に見えるいくつかの横穴墓が十五郎穴です。

これは副葬品の年代から奈良時代のお墓であるとされています。
群集して作られていてその数は300基を超すと言われています。
自分たちの暮らした集落と田んぼを見渡せる位置に亡骸を葬ったのだと思います。


虎塚古墳 その2 [史跡散歩]

ひたちなか市埋蔵文化財センターを出て、歩いて虎塚古墳に向かいました。
近道するには森を通っていくのですが、この入り口が暗くて不気味です。

暗い森の中を1〜2分進むと虎塚古墳の墳丘が見えてきました。
周囲は古墳公園として整備され、休憩するためのテーブルやベンチがおかれていました。
個人的な見解ですが、古墳の周囲には何もないほうがよいのです。
周辺環境を維持するには公園とするという手法しかないのはわかりますが。

虎塚古墳は前方後円墳で、全長56.5m、7世紀前半頃作られたと考えられています。
昭和48年の発掘調査で後円部から石室を発見し、翌年国の史跡に指定されています。

ここが石室の入り口です。

墳丘には上ることができますが、ここはお墓であることを忘れないようにしましょう。


虎塚古墳 その1 ひたちなか市埋蔵文化財センター [史跡散歩]

虎塚古墳はひたちなか市にある有名な装飾古墳です。
古代史ファンなら寄らずに帰ることはできません。
しかし、石室内の公開は春と秋の一定の期間に限られています。
つまり本物はこの時期行っても見られないのですが、それを承知で向かいました。

まず目指したのは虎塚古墳の手前にあるひたちなか市埋蔵文化財センターです。
ここで古墳のレプリカや出土品が展示され虎塚古墳の予備知識を学べるようになっています。

展示室内には市内の遺跡の出土品が並べられています。
部屋の中央には虎塚古墳の石室の実物大レプリカがあります。
本物は公開している時期でも撮影禁止なので、これで我慢してください。

玄室は白色粘土を下塗りした上にベンガラで文様が描かれています。
正面の2つのドーナッツが目を引きますが、これは環状文と言います。
他の壁画は武具や馬具を表しているのですが、このドーナッツの解釈は学者によって分かれているようです。
蛇の目という説、鏡であるという説、太陽と月という説などです。
私は、鏡も捨てがたいと思うのですが、太陽と月であると考えています。

いずれにせよ古墳時代の人たちが何を考えてこの壁画を描いたか、想像することは楽しいことです。

他にも乳飲み子を抱いた埴輪や馬型埴輪などが展示されていました。


那須の旅 5 那須歴史探訪館と遊行柳 [史跡散歩]

雲巌寺から那須町へ戻る途中、雲行きが怪しくなってとうとう雨粒が・・
このところ那須地方では午後になると決まって夕立があります。
雨宿りを兼ねて那須歴史探訪館を訪れました。
ここは建築家隅研吾氏の設計になる建物で、内装もトイレなどのデザインも斬新です。
館長さんがとても丁寧に那須の古代から近代に至る歴史を展示されている文物に沿って説明してくれました。
ここは江戸時代の旗本、芦野氏の城(居館)に近く、敷地内には芦野氏の陣屋裏門の複製と蔵もあります。

歴史探訪館を後にしてすぐ近くの遊行柳へ行ってみました。
遊行庵という売店の駐車場からみた遊行柳です。
あいにくの天気で柳が雨に煙っています。
雷も鳴りだしてきたので、田んぼの中を歩いて近くまで行く事はあきらめ、土砂降りのなか宿まで戻りました。

田一枚 植えて立ち去る 柳かな        芭蕉

稲妻を さけて立ち去る 柳かな        レイン


那須の旅 4 コスモス咲き乱れる雲巌寺 [史跡散歩]

那須からは多少距離がありましたが、黒羽町の雲巌寺に向かいました。
ここは芭蕉も殺生石のつぎに訪れています。

雲巌寺は禅宗のお寺で鎌倉時代に執権北条時宗が建立しました。
度重なる戦乱で焼き討ちに逢いましたが、山門だけは創建当時の姿を伝えています。
ということは芭蕉も同じ山門をくぐって境内に入った訳ですね。

朱塗りの橋と石段、山門がとても美しい調和を奏でています。

境内にはコスモスが咲き乱れていました。

観光客もあまり来ない静寂に包まれた世界です。

ここでもトンボや蝶を撮りました。
田舎のトンボは逃げずに撮らせてくれるような感じがします。


那須の旅 2 那須与一と那須温泉神社 [史跡散歩]

殺生石を見た後、那須温泉神社にお参りしました。ここの歴史は古く、舒明天皇(奈良時代)の時代に創建されたと伝えられています。

この神社の名は、源平合戦において、那須与一が屋島の戦いで平家の船に掲げられた扇の的を射る際「南無八幡大菩薩別してはわが国の神明、日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神願わくはあの扇の的の真ん中を射させてたはえ給え」と祈願したことから、全国的に有名になったのでした。

この名場面は8月14日放映のNHK大河ドラマ「源義経」でやるそうなので、那須の人たちも楽しみにしていることでしょう。


神社の境内で羽の先端が黒いトンボをみつけました。
暗かったのでフラッシュをたきましたが、逃げずに留まっていてくれました。



那須の旅 1 殺生石は温泉タマゴの臭い!! [史跡散歩]

8月9日(火)曇り時々晴れ。那須にきたからにはまず殺生石と那須温泉神社へのお参りです。
殺生石には子どもの頃行った事がありますが、もっと広い場所だったような気がします。
硫黄の臭いがしています。これも昔はもっときつかったような。
近くを歩いていた子どもが「「わぁ〜、温泉タマゴの臭い!!」とはしゃいでいました。

殺生石の話はご存知の方も多いと思いますが、ちょっとおさらい。
昔々、九本の尾を持つ妖怪狐が美しい女性に化けて中国やインドの王も手玉にとり悪事を重ね、今から800年ほど前の日本にもやって来ました。この妖狐は玉藻の前と名乗って鳥羽天皇に仕え日本の国を滅ぼそうとしましたが、陰陽師の阿部泰成(安倍晴明のお父さん)に正体を見破られ那須野が原に逃れてきました。その後も妖怪狐はこの地で悪さを繰り返したので、とうとう退治されてしまいました。しかし妖狐の死体は大きな石となり、近づくものすべて死に追いやる毒気を吐き出したため「殺生石」と呼ばれました。これを会津示現寺の和尚さんが石にこもる妖狐の恨みを法力で封じましたので、ようやく毒気も少なくなったとかたり伝えられています。

かの松尾芭蕉も元禄2年(1689)にこの殺生石を訪れ、「奥の細道」に次のように記しています。
「殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。」
芭蕉が訪れた時は今よりも石の毒がかなり強かったのでしょう。
芭蕉はこの地で「石の香や 夏草あかく 露あつし」と詠んでいます。
ただしこの句は奥の細道には出てきません。同行の曽良随行日記に記されている句です。


狐の怨念を鎮めるために作られたと言われる千体地蔵が並ぶ様は怪しい雰囲気を醸し出しています。なかにはけっこう新しそうなものもあります。

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