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第五福竜丸展示館 [船]

 夢の島シリーズ、第五弾は第五福竜丸展示館です。
 夢の島公園の一角に切妻屋根の形をした建物があって、その中に第五福竜丸が展示されています。
 年配の方には説明不要かと思いますが、第五福竜丸をご存じない方もいるのでは、ということで若干ご紹介します。

 「第五福竜丸」は、昭和22年(1947年)に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。
 木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。
 第五福竜丸は、昭和29年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被災し、乗組員23人は「死の灰」を浴びました。
 死の灰(放射能降下物)は放射能を大量に含んだ珊瑚礁の石灰岩の細かいチリで、雪の降るように積もり、甲板をおおいました。また、乗組員の顔、手足、髪に付着し、鼻からも体内に吸い込んでしまいました。皮膚に付着したところは放射能により、ヤケドのような状態になりました。
 この実験の事前通告は日本の海上保安庁や水産庁にはありませんでした。また、他の多くの船舶に加えて実験場に近いマーシャル諸島の島民も放射能に汚染されました。当時マーシャル海域には、900隻に及ぶマグロ漁船が漁をしていて、2万人近くが被爆したといわれています。
 船は全速力で母港の焼津港に戻りましたが、23人の乗組員は重い急性放射能症状がでていて、半年後の9月23日には無線長の久保山愛吉さんが亡くなりました。
 被害は第五福竜丸だけにとどまらず、帰港した他のマグロ漁船からも放射能に汚染された「原爆マグロ」が次々発見され、廃棄されました。さらに、放射能を帯びた細かいチリは大気の流れに乗り雨に混じって日本全国に降ってくるようになりました。
 放射能への恐怖は日本国民の中に原水爆への激しい怒りをよみがえらせ、1955年8月広島での第一回原水爆禁止世界大会を開き、世界に核兵器廃絶、被爆者援護を呼びかける大きな力となりました。
 それでは、第五福竜丸がなぜここ夢の島にあるのかということですが、その後、船は文部省が買い上げ残留放射能の測定実験などに使われた後、放射能の除去作業が行われ、東京水産大学の練習船として改造され、名前もはやぶさ丸と変え、国民の前から姿を消したのです。1967年はやぶさ丸は廃船処分となり、解体業者に売り渡され、夢の島に打ち捨てられたのです。


夢の島に廃船として打ち捨てられた第五福竜丸

 1968年3月朝日新聞の声欄に掲載された一つの投書「沈めてよいか、第五福竜丸」が人々の心を揺り動かしました。この投書がきっかけとなって市民による保存運動が広がり、当時の東京都知事美濃部亮吉氏もこの運動に加わって都立第五福竜丸展示館が1976年6月開館しました。

(明日に続く)


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