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マリア・ルス号事件と副島種臣 [船]

 このブログのテーマとしてはややはずれますが、自分の自己啓発としてインターネット上の大学である「佐賀ときめき大学」に4年前から参加しています。毎年テーマが決められていて1年に1度佐賀でのスクーリングへの出席とレポートの提出が義務づけられています。4年時のテーマは「日本近代化の先駆けー幕末・維新期の佐賀ー」で、このたび、私の提出したレポートが優秀賞をいただき、7月29日の佐賀新聞に掲載されたという連絡がありました。
 そこで、予定を変更して、このブログにレポートの全文を掲載します(約2000字です)。

「マリア・ルス号事件と副島種臣」

 佐賀七賢人というテーマで以前から思っていたのは、七賢人と自分の住む横浜との接点がなかったかということである。調べてみると明治維新直後の横浜港が舞台となった「マリア・ルス号事件」に、七賢人のうち副島種臣が重要な関わりを持っていたことがわかった。

1 マリア・ルス号事件とは
 1872年(明治5)7月13日夜半、一人の男が暗闇の横浜港に飛び込んだ。これがマリア・ルス号事件の発端である。幸い男は近くに停泊中のイギリス軍艦、アイアン・デューク号に救われたが、その様子を不審に思った船員が問いただしたところ、男は船内での苛酷な取り扱いに耐えかねて逃げ出した清国人とわかった。


アイアン・デューク号

 ペルー船籍のマリア・ルス号(Maria Luz)は、マカオを出航しペルーに向かって航行中、暴風で損傷した船体を修理するため横浜港に停泊していた。船には230人の清国人移民が乗っていたが、船底に押し込められ、十分な食事も与えられず、折からの暑さで船内は悲惨な状態となっていた。この事実がイギリス代理公使から外務卿(外務大臣)副島種臣に伝えられた。

 当時ペルーと日本は条約を結んでおらず、清国とは条約調印済みだが未発効の状態であった。しかし副島は英米両国の支持のもと法権は日本にあるとして、神奈川県参事(のち権令、現在の知事)大江卓に船長の裁判を命じた。その間清国人全員を上陸させて港内の施設で手厚く保護した。

 特別法廷では船長の不法監禁を確認したが情状酌量により無罪とする一方で、清国人全員を解放・帰国させた。これに対しペルー政府が異議をとなえたが、明治8年のロシア皇帝による仲裁裁判は、日本政府の道義的処置はなんら非難すべきところがないとする判決をくだした。

2 副島と江藤

 マリア・ルス号事件の主役は裁判を指揮した土佐藩出身の大江卓である。そして当時25歳の大江を終止一貫して支持したのは外務卿副島種臣であった。

  
     副島種臣(左)と大江卓(右)

 維新直後の日本には司法の独立がなく地方行政官が裁判を担当する事になっていた。これに対し司法卿の江藤新平は早くから司法の独立を訴え、全国に裁判所を設置し実行に移そうとしていた。この事件はそのちょうどさなかの出来事である。副島はワトソンからの書簡を受け取ると、この裁判を司法省で引き受けようという江藤の申し出を断り、現行制度のまま神奈川県権令が裁判を行うよう太政大臣三条実美の了承を取り付けた。

 副島も江藤も佐賀藩の英学校「致遠館」でフルベッキに英米法や各国の法制経済を学んでいる。副島とて司法の行政からの独立が必要な事は重々承知していた。しかし、江藤が「海上の船舶内は治外法権であり日本の法律は及ばない」と考えたのに対し、副島は「船内が治外法権とはいえひどい虐待を受けている人たちを見捨てる訳にはいかない」と、あくまで日本国内で生じた人道上の問題ととらえ、清国人クーリー苦力の解放をめざした。留守政府を預かる副島としては、この事件を解決する事で、近代国家として日本が脱皮しつつあることを諸外国にアピールする絶好の機会であると考えたに違いない。


   フルベッキ

3 事件と裁判の意義

 条約未済国のペルー人船長を被告とする裁判が開始されると開港当時の諸外国との取り決めである「居留地取締規則」により、各国領事から横槍が入り、裁判長の大江は難儀する。そのたびに副島は大江を強力にバックアップした。特に、アメリカ公使が当初の態度を変え、中南米諸国の外交事務代行を行っている立場から清国人を船長に返してやってほしいと副島に書簡を送り裁判に圧力をかけてくる。しかし、副島はペルー人と清国人の日本国内における利害の対立は日本の法律で裁くことができるという、フルベッキから学んだ「万国公法」の考え方をもとに大江を支持し、この書簡は日本の主権を侵す内政干渉であるとして受け取りを拒否した。当時の日本は不平等条約下で治外法権がまかり通っていたが、副島は断固たる態度でこれと戦ったのである。

 裁判の過程で被告側の代言人(弁護士)ディケンズの、日本にも遊女という人身売買が存在しているという指摘は政府首脳を狼狽させた。この裁判がきっかけとなって政府は遊女という国内問題の解決を迫られ、娼妓解放令という思わぬ副産物を生んだ。また、ディケンズの活躍は裁判における弁護士活動の重要性に日本人が初めて気付くきっかけとなった。

おわりに

 このようにマリア・ルス号事件とその裁判は、わが国が近代国家の仲間入りを果たす契機となった。人権という考え方が未成熟な時代に目前の問題を看過せず現状の打開、改革を進めて行った副島、大江の態度は立派である。横浜に住んでいた中国人たちが二人にそれぞれ大旆(たいはい、大きな旗のこと)を送り感謝の意を表したが、これは今も保管され日中友好の歴史を伝えている。世界には未だに奴隷労働や児童労働が存在し、日中関係もぎくしゃくしているだけに、私たちはこの事件を改めて思い起こす必要があるだろう。


神奈川県立公文書館に保存されている大旆


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