日本橋今昔 [東京散歩]
日本橋三越に行くついでに、有名な日本橋を訪ねてみました。
現在の日本橋は、明治44年(1911年)に架けられた第19代目の花崗岩造り。
昨年4月に、架橋100周年を迎えました。
上には首都高が通っていてなんとも風情がありません。
ご存知安藤広重の「東海道五十三次之内 日本橋」
徳川最後の将軍、慶喜公の筆になる銘版。
橋を装飾する翅のはえた麒麟(左)と獅子(右)。麒麟は首都東京の飛躍を表し、獅子は守護を意味しています。獅子像は右足で東京市の紋章を押えています。
橋のたもとには日本国道路元標の複製が飾られています。
その本物はどこにあるかというと、日本橋の中央の路面に埋め込まれています。
ここは国道の起点であり、全国の主要な都市への里程標がありました。
道路原票と通りをはさんで反対側の橋野たもとには、「日本橋魚市場発祥の地」の碑があります。
江戸時代からここ日本橋側沿いに魚河岸があり、魚介類を河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。大正12年の関東大震災で大きな被害を受け、魚市場は現在の築地に移転しました。
歌川国安「日本橋魚市繁栄図」
日本橋から見た震災前の魚河岸(左端)と日本橋川の様子。奥は江戸橋。
さて、最後の写真です。黒ずんでいるところがありますが、何の汚れかわかりますか?
いくら洗ってもとれないそうです。
これは戦時中の米軍のB29による空襲の際、焼夷弾の油脂が飛び散った跡です。
由緒ある日本橋にも戦争の傷跡が今もくっきりと残されていました。
[2月12日撮影]
現在の日本橋は、明治44年(1911年)に架けられた第19代目の花崗岩造り。
昨年4月に、架橋100周年を迎えました。
上には首都高が通っていてなんとも風情がありません。
ご存知安藤広重の「東海道五十三次之内 日本橋」
徳川最後の将軍、慶喜公の筆になる銘版。
橋を装飾する翅のはえた麒麟(左)と獅子(右)。麒麟は首都東京の飛躍を表し、獅子は守護を意味しています。獅子像は右足で東京市の紋章を押えています。
橋のたもとには日本国道路元標の複製が飾られています。
その本物はどこにあるかというと、日本橋の中央の路面に埋め込まれています。
ここは国道の起点であり、全国の主要な都市への里程標がありました。
道路原票と通りをはさんで反対側の橋野たもとには、「日本橋魚市場発祥の地」の碑があります。
江戸時代からここ日本橋側沿いに魚河岸があり、魚介類を河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。大正12年の関東大震災で大きな被害を受け、魚市場は現在の築地に移転しました。
歌川国安「日本橋魚市繁栄図」
日本橋から見た震災前の魚河岸(左端)と日本橋川の様子。奥は江戸橋。
さて、最後の写真です。黒ずんでいるところがありますが、何の汚れかわかりますか?
いくら洗ってもとれないそうです。
これは戦時中の米軍のB29による空襲の際、焼夷弾の油脂が飛び散った跡です。
由緒ある日本橋にも戦争の傷跡が今もくっきりと残されていました。
[2月12日撮影]
歴史ある地なのに この首都高はなんとかならなかったのでしょうか。
私も 初めて訪ねた時に えっ? て思いました。
by タックン (2011-02-19 16:26)
東京の日本橋、確か箱根駅伝のスタートとゴール地点でしたよね。
荘厳な彫刻作品や石碑など、歴史を感じさせます。
最後の写真の戦争の傷跡は、次の世代にも伝えなければならないと思います。
by ながつき (2011-02-19 23:00)
戦争の戦跡が残っていたとは!!!
今度、じっくり眺めてみよう!
by achami (2011-02-20 17:46)
タックンさん
由緒ある日本橋の真上に首都高を通す感覚は、今思えば言語道断ですが、当時としては時代の要請だったのでしょう。
ながつきさん
日本橋は五街道の起点らしく豪華な彫刻で飾られています。そんな日本橋にも戦争の傷跡が残っていました。
achamiさん
こんどぜひ見に行って確かめてみて下さい。
by レイン (2011-02-23 20:34)