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関東大震災と横浜 [今日は何の日]

9月1日は震災記念日。1923年(大正12年)のこの日、11時58分に発生した関東大震災における遭難死者を追悼し記念する日。現在、この日を防災の日としています。
震源地は相模湾北部、マグニチュード7.9、震度6。
震源に近い横浜は東京以上の激震により死者・行方不明者26623人でした。
当時の横浜市の人口は44万3千人ほどでしたから、死者数は人口の6%にもなる大惨事でした。
この日にあたり、改めて関東大震災と横浜について考えてみたいと思います。

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横浜公園に震災復興の由来碑があります。
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関東大震災で市街の大半が猛火に包まれるなか、横浜公園には多くの市民が避難しました。
その数は4万人とも6万人とも言われています。
水道管の破裂によって公園内は水浸しになって、人々は水に浸かりながら周囲の猛火や火災の熱によって捲き上る旋風から身を守ったそうです。公園の樹木も火の粉を防ぐのに役立ったものと思われます。
横浜公園での死者は53人にとどまったと報告されています。

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九死に一生を得た人々や多くの市民が横浜公園の復興の際、樹木を寄付したことがこの由来碑に記されています。
これに対し、横浜公園とほぼ同じ面積の東京市本所区(現墨田区)の陸軍被服廠跡では、4万人に上る避難者のうち実に3万8千人が死亡しました。
この違いとして考えられるのは、燃え移り易い家財道具が持ち込まれていたかどうかが被害に大きな差を生んだと言われています。

被災した開港記念会館
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時計塔と壁体だけを残し内部は消失し、屋根ドーム群も失われました。

ほぼ同じアングルで
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被災した横浜正金銀行本店
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銀行の建物は倒壊しませんでしたが、付近に火災が次々発生、行員ら140人、避難住民200人は地下室に避難し、難を逃れました。
しかし、銀行前の広場にいて建物内に入れなかった避難住民140人は焼死しました。

現在は神奈川県立歴史博物館。
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被災した赤レンガ倉庫、1号倉庫
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1号倉庫は半壊し大きな被害を受け、その後ほぼ半分の大きさに縮小されました。

激震を耐えた2号倉庫。赤レンガパークとして再整備される前の2000年ごろの写真。
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山手80番館遺跡
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横浜に現存する唯一の関東大震災前の外国人住宅の遺構。
震災で倒壊し、残っているのは住宅の地下室部分。当時はマクガワン夫妻の住居でした。


最後は山下公園。
山下公園といえば、赤い靴像ですね。
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ご存知の方も多いと思いますが、山下公園は関東大震災の復興事業として、震災の瓦れきを使って海を埋め立て造成しできた公園です。
1930年(昭和5年)に開園しました。

インド水塔
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昭和14年に完工したインド式水飲場。
関東大震災で被災した在留インド人が横浜市民から受けた援助に感謝して、当時の横浜インド商組合から横浜市に贈られたものです。

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関東大震災と横浜との関係を表す代表的な場所を、過去や現在の写真で紹介しました。
震災記念日を機に改めて地震防災について考え、備えをしたいと思いました。
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